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7年後_その続き(藤野裕真誘拐事件・未完)

「済みません」
後ろ髪を引かれる思いでまつりと別れた後、タクシーを探して道路の方を眺めていたら、ぽつりと後ろからそう話しかけられた。水族館では不覚を取ったとは言え今日はやはり誰にも気づかれなかったから、これは普通に道でも聞かれるのだろうと裕真は気軽に振り返った。声をかけてきたのは自分と同い年くらいの、いやに背の高い女性だった。見上げる格好になったのを少し悔しく思いながら何ですか、と普通に答えると、女性はにっこりと不思議な笑みを浮かべた。
(……)
もしかしたら、ばれたのかも知れない。どうやって答えようかと必死で頭をフル回転させる。即座に用意された四パターン程の続きの台詞に、ひとつずつシミュレーションを重ね、何とか全てに対して回答を作ったところで、女性が口を開いた。
「――藤野裕真さん、ですよね」
「え……?」
だがその唇から紡がれたのは思いもよらない言葉だった。それは確かに自分の名前だ。けれど、『本物』の自分であるところの『藤野裕真』の知り合いの中にこの女性はいなかった。職業柄人の顔を覚えるのは得意な方で、何度も考えてみたけれど、この女性には全く見覚えがない。
あの、と口にしかけたところで、不意に彼女がぐい、と近づいてくる。状況が全く読めずにただ見開いた眸の中の彼女がどんどん大きくなって、気づいたらそのまま抱きつかれるようにして、手首をぎっちりと掴まれていた。展開についていけぬまま、とにかくこの手を振りほどこうと腕に力を込めたところで、今度は唐突にその腕に鈍い痛みが走った。――何かを、刺されたような。
(何だ、これ……!)
普段からさして感情を露わにしない性質が災いしてか、声は喉の奥に引っ掛かったまま音にならずに吐息として漏れただけだった。底知れぬ恐怖がじわじわと込み上げて来て、何とかしてこの場から逃げないと、と、そればかりが頭の中を駆け巡っていく。未だ抱きつかれたままの身体を自分の元に取り戻さなければ。けれども必死の思いでもがいたものの、何故か彼女はびくともしない。その内自分の呼吸が変に浅くなっていき、いろんなところに力が入らなくなっていくのが分かった。ざあ、と血の気が引いて、それと同時に襲い来た倦怠感に抗えずに、瞼を閉じる。それきり何も分からなくなった。

 ゆるりと力の抜けた身体を難なく支えたまま彼女は沿道の車にそのまま滑り込んだ。少し何かが引っ掛かったようだったが、強引に引っ張って何とか扉を閉める。音もなく車が発進した。
女が、眸を閉じたまま動かない裕真を膝の上に横たえさせて、度の入っていない眼鏡を外し、それにつれてはらりと舞った前髪に触れる。
信じられない位綺麗な子ねえ、テレビよりずっと良いわ、と呟いてから、彼女は運転席にいる男に声をかけた。
「ね、この子アタシのものにしちゃ駄目?」
媚びるようなその声音に苛立ちを見せながら男が前を見ながら舌打ちする。
「駄目に決まってんだろ。これ以上面倒を重ねんのはごめんだ」
それに彼女はええー、と口を尖らせた。
「今更何を言ってるのよう。もう既にアタシ達、犯罪の片棒担いでんのよ?」
「にしたって、もうヤツとはこれっきりで手を切りてえんだよ! お前あいつにこれ以上脅迫のネタ掴ませる気かよ!」
男が、ばん、とハンドルを叩く。おおこわ、と女は首を竦め、勿体ないなあ、と裕真の頬に指を滑らせた。
「おい!」
男が顔を険しくするのを見てとって、何にもしてないわよ、と女が叫ぶ。
「……ごめんねえ、悪く思わないでね?」
――貴方、素敵よ?
そう囁いた。
返事は無い。

 目が覚めてもあたりは暗闇だった。
「ん……」
起きたのだから、今は朝ではないのか。まだ夜中なんだろうか。
半分ぼやけた視界で、裕真は首が向いている方をそのまま見つめた。
(……?)
そしてそのまま怪訝に思いながら眉根を寄せた。眼前にあるのは全く見慣れない灰色の壁だったからだ。
(夢……じゃない……)
違和感があり過ぎる状況に反して、意識は次第にクリアになっていく。気づけば自分が横たわっているのはベッドではなく壁と同じ灰色のコンクリートで。変な方向に行っている腕を持ち上げようとして、不自然につっかかってそれが叶わなかったところで、唐突に点が繋がって線になった。
「……」
――この状況は。
所謂、拉致監禁、というやつだ。
ここは薄暗い倉庫のような場所で、自分は後ろ手に縛られたまま床に転がされている。
「気持ち……悪……」
事態を正しく把握した途端、吐き気が胃からせり上がって来て思わずそう呟いた。そのまま激しく咳き込んだものの、当然だが誰も来ない。
何度か肩で息を繰り返して落ちつけ、落ち着けと自分に言い聞かせる。
(――何処でこうなった? 考えろ、考えるんだ……!)
だが幾ら脳をフル回転させてもここに至るまでの経緯は全く思い出せなかった。遡れる限りの直近の過去は、まつりの笑顔だった。彼女の顔を思い浮かべると、焦燥感が少し去ってゆく。ああそうだ、雑誌にまつりとの事が報道されて、ごめんと謝って、プロポーズしたら、わたしレッドカーペットって歩いてみたかったの!とうきうきとした様子で答えられて、すごく救われた気持ちになったのだ。無数に繰り返されるインタビューで、毎回、好きなひとはいない、と、答え続けていることを、彼女が少しばかりさびしく思っていたのを知っている。君が好きだ。君のことが好きなんだ。何度言っても、その場ではちゃんと伝わっているものの、時折何処か不安げな顔になるのを止めることはできなかった。七年だ。それがもう七年間。
自分は彼女が好きで、彼女は自分のことを好きでいてくれて――そう知っているはずなのに、彼女のそんな顔を見てしまうたびに、つられて自分も何故だか不安になった。本当にいいのだろうか、と。最初からこうなるのは分かっていたと言うのに。
だから、初めて、好きなひとはいる、と答えて良い機会が偶然とは言え訪れた時には、もう、そうすることによってまつりがどれだけ世間から不利益を被るのかは考えられなかった。あるのは離したくないと言う思いだけだった。何があっても守るから。だから、どうか。
果たして彼女は、それでも笑って受け容れてくれた。レッドカーペットだなんて、それだけじゃなくて。この先もずっとずっと。
でもそこが始まりならば、それならプロムの時みたいに、自分がドレスを選びたい。一等可愛く見える衣装を選んで、このひとが自分の好きなひとなんだ、と、ずっと前からそうなんだ、と、言いたい。そう思った。
まつりがいつこの状況に嫌気がさしてしまうのか、不安でたまらなかったけれど、その気持ちとは裏腹に、先に彼女に似合いそうなドレスをつい探してしまっていた。本当は、まつりにプロポーズしても良いと言う許可が出る前から、こっそり目を付けている店があったのだ。ここで、選びたいと思った。彼女と一緒に。
――そこまでだ。その先が何もない。
「……」
若干冷静さを取り戻した頭は、記憶の追求を諦め状況を分析しろと告げた。ここはどうやら倉庫だ(内部構造の詳しい部分の把握は取り敢えずこの手の戒めを何とかした後だ)。猿轡は無く、縛られているのは腕だけ(つまりは叫んでも無駄で、窓などから逃げ出すことも不可能と言うことか)、怪我は……していないように見える。シチュエーションは最悪だが、身体能力で何とかなる部分もあるかもしれない。
では次、何の理由で拉致監禁されているのか。
営利誘拐ならば、確かに財産は無いわけではないが、わざわざ多少目立つ自分を選ぶ理由が分からない。場合によっては警察より先に報道陣が押し寄せる可能性も無きにしも非ず、だ。無論報道規制はかかるだろうが、独自調査までは止められまい。
ならば怨恨か、とも思うが、ここまでされるほど誰かの恨みを買った覚えもない。敢えて言うならば、考えられるのは、役を取られたとかそういった類の逆恨みか、或いは……。
高名なホラー作家の代表作のタイトルが即座に思い出された。熱狂的なファンに作家が監禁される作品だ。ファンは自分の気に入っているシリーズのラストを書き換えることと、最終的に作家の生命を要求した。どちらにせよぞっとしない想定に恐怖が込み上げる。それを振り払うように、裕真は何とか身体を起こしたが、立ち上がろうとした瞬間派手な目眩がしてその場にくず折れた。くるくると世界が回り、目を開けていられない。
「まつり……」
覚えず呼んだ彼女の名前に、無論答える声は無かった。再び世界が闇夜になった。

「あ……」
それからどれだけの時間が経過したのか。
もしかしたら夢かも知れない、という淡い期待は目を開く前の身体の痛みであっさりと打ち砕かれた。分かっていながら僅かでも期待した分余計な失望感を味わう羽目になった自分を悔やみつつ、裕真はゆっくりと目を開けた。特に変化の見られない薄暗い室内では今が何日の何時なのかも先刻からどれだけ経過したのかも、何も分からない。
(……記憶)
そちらの方も相変わらずで霧の中にいるようだ。手を振るまつりの顔はこんなに鮮明に描けると言うのに、その先がさっぱり分からない。まつりと別れたのは急に映画の宣伝関連のインタビューが入ったからで(行ったのかどうか正確には思い出せないが多分穴を開けている)、その後の予定はまた事務所で相談、だった。それでその日の予定は終わりの筈だ。
(――あ)
次の日は何があるのだったか、と考えていて、朝七時に迎えに行きますから、と松川が何度も念を押してきていた姿が不意に脳裏を過ぎった。
『――それ、早すぎない』
『白谷監督は非常に時間に厳しいことで有名ですから、たとえ数分でもオーディションに遅刻するわけにはいきません。責任を持って間に合うように送りますから、ちゃんと準備しててください』
裕真は慎重に身体を起こすと首をめぐらせた。幸い目眩は起こらず、そのまま隅々まであたりをうかがう。だが一度目に目覚めた時と同じく、誰の影も視界に入らなかった。――つまり。
営利ならそろそろ電話に何か言わされているだろうし、狂信的なファンならそろそろ足を潰されそうになっているだろうし、怨恨だとしたら何故危害を加える絶好の機会に何もしていないのかが分からない。
「オーディション……」
馬鹿馬鹿しいが、それが関係していると言うことなのか。
語るに落ちる、の状況だが、生憎このままではオーディション会場に集まる人間の顔が見られない。
ため息を落として、段ボールに近づき、後ろ手のままそれを何とか開封してみる。出てきたのは箱いっぱいの鉛筆だった。――と言うことは、ここは文房具の倉庫なのか。ならば何処かにカッターナイフがあるかも知れない。ひとつ見えた光明に微かな希望を抱きながら、その鉛筆の入った段ボールを懸命に蹴落とす。落ちてきた汗を拭う術もなく、それはそのまま目の中に零れ落ちてきた。苦心の結果二つ目の段ボールが開かれる。
「……」
そうやってぼやけた視界に飛び込んできたのは、また鉛筆の山で。裕真は肩で息をしつつ壁にもたれかかった。そのままずるずるとしゃがみ込む。残る段ボールは、後三つ。ひとつずつ開けていくしかない。裕真はのろのろともう一度立ち上がると、握り締めた鉛筆を段ボールへとぎこちなく突き立てた。