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『彼』のいない空白(8月3日、夕方)
 今日は試合のシーンだけで本当に良かった、と裕真は今日何度目か分からないカウントダウンをしながらそう思った。完全に集中できていない。内側に居ないのだ、彼が。ただ今の使命は本気で試合をしてギリギリのところで勝つこと、だったから、後何分で終わる、後もう少しで休める、と考えていても何とかやりすごせていた。
 平たく言うと非常に具合がよろしくない。これが終わったら、この後は何も予定がないから。これさえ終われば。
 疲労、睡眠不足、胃痛、食欲減退……まつりに看破された以上に今の自分はぼろぼろだ。そしてそうなった主たる要因が「演技がうまく出来ない」だから最悪にも程がある。その上未だに一筋の光明すら見い出せていないのだから本当にどうすれば良いのか分からない。難しい役ではないと思っていただけに、尚更だ。
 大きく溜め息をついて、流れ落ちる汗を拭った。耳の奥でうるさく鼓動が鳴り響いて、それもまた集中の邪魔をする。裕真はゆっくりと顔を上げた。スコアボードは後一回決めれば裕真の勝ちで試合が終えられると言うことを示していた。――後、少し。
 床を蹴る音が響く。風が厳禁のこの競技の特性上、唯でさえ暑い体育館がまるで熱帯雨林のように感じられた。打ち込んだシャトルが又拾われ、ラインぎりぎりに落ち行く。いい加減インかアウトかの判断が出来るようになっていると自分では思っていて、その勘を信じるならば今のはインだ。つまり拾わないと終われない。微かに床が揺れる感覚にさいなまれながら何とか拾い、また戻ってきたシャトルにラケットを叩き付ける。そのスマッシュが無事決まり、漸く試合は終わった。
 互いに肩で息をしながら、挨拶を交わしたところで待望のカットがかかった。――これで、帰れる。そう安堵したところで、監督が非情な一言を口にした。
「広政、この後少し時間あるか? 三森となかなかスケジュールが合わないから出来たらこの前のシーン撮っときたいんだけど」
 この前の、とはつまり、散々NGを出したあのシーンのことで。また同じだろうと彼にしては珍しく気弱に考えつつ、停滞したのは自分のせいだし生憎空きがあるのだから――戻ってきた松川も了承の印に頷いていた――否とも言えずに分かりましたと答えた。
「じゃあ三十分後に裏庭の方に集合な」
「――はい」
 
「三森さん、すみません、この前は」
「いいえ、気にしないで。今日はうまくオッケー貰えると良いわね?」
 役の上では年下だが実年齢は二つほど年上の三森夏希はそう姉のように言ってにこりと笑った。ヒールの高い靴を履かれると完全に目線が上になると言う事実も手伝ってか、いつも『可愛がられている』感覚がある。同い年のまつりは12センチヒールでもぎりぎり自分の身長には届かないとふと考えて、不思議な気持ちになった。何かを攻撃するかのような細くて長いヒールの靴をまつりが履くと言うシチュエーションはつまり服も相応にドレッシーなものになると言うことで。目にする機会はあるのだろうか。
(――プロム……?)
 卒業式の翌日、虹が丘高校の主催で開かれる、日本らしからぬイベントのことだ。
 確か相手が必須だとかそもそも単位が足りるのだろうかとか横たわる問題が多すぎる。
 数秒の間に駆け巡った着想をそこで全部切り捨てて、裕真は夏希の顔を見た。今日は幸い衣装の制服に合わせたローファーだったから、微かに見下ろす格好になる。
「――はい。でも、あの、俺」
 言い訳がましいと思いつつもまた無理かもしれないと言いかけたところで、声がかかった。やむをえず口をつぐんで立ち位置に戻る。
「準備完了しました! リハはいりまーす。五秒前、四、三」
 精一杯やることは保証するけれど、結局何一つ解決していない。夏希には悪いが、またNGを出される予感がする。
(――)
 何度も何度も探して、何とか呼び起こす。ゆっくり現れた『彼』が、やけに重たい身体を引きずりながら、始めようとして。ふと、目の前がぼやけてきた。
「『……なに、話って』」
 夏希の声がひどく遠くに聞こえる。
「……」
 それに答える台詞は喉の奥に張り付いたまま出てこなかった。言いたいことは分かるのにちっとも声にならない。景色は、立ちくらみの時とは違ってどんどん薄くなっていって、一向に霧が晴れる様子はなかった。
「……? ね、冬弥くん、どうしちゃったの……? セリフは……?」
 長すぎる間に痺れを切らした夏希の囁きも、もう、微かにしか聞こえない。