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調理実習の前と裏

 結局その日の午前中には彼は来なかった。さり気無く友達に聞いてみたスケジュールでは、出演するドラマのプロモーション活動の一環で、情報番組やクイズ番組に幾つか出ると言うことだったので、それで忙しいのだろう。そのまま昼休みが終わり、実習が始まっても姿を現す気配はなく、喧騒に包まれた調理室で唯一つ静かに置き去りにされたエプロンだけが彼の名残を感じさせる。頼まれたりはしていないけれど、今日の家庭科が調理実習である事など知らないだろうと思い、彼女が自主的に用意したものである。座る筈の席に置いておいたのだが、普段目立たぬようにいっそまるで隠れるように過ごしている彼の不在を、その打ち捨てられたようなエプロンと同じに、クラスメイト達は誰も気に留めていなかった。
(さびしく、ないのかな)
幾ら好きで来ている学校で無かったとしても、来ているのならば。来る事を止めないのならば。
どしたの、ぼんやりして、とかけられた声にううん、何でもない、と答えつつ彼女はそう考えていた。どんなにざわついた空間だって、自分にはこんな風に気にかけてくれる友達がいると言うのに。
千切れ飛ぶような思考とは裏腹に、手は正確に動いていく。こねて寝かせて、好きな形にくり抜いたクッキーを天板に載せた。うさぎ。星。……ハート。
それらがオーブンの中できつね色に色づく頃に漸く、さんざめくようなお喋りの隙間から、からりと扉が開く音がした。慌てて目を上げたら、果たして其処に居たのは彼で、形の良い唇を静かに動かし、済みません、と教師に謝罪していた。
「本当にしょっちゅう休んでるよね、彼」
ぽつりと彼女がそう言うと、お喋りの相手だった親友は、そうだよね、一年の時からそうだよねえ、何でか成績は良いけど、と応じたものの、それ以上の情報は無いのか、話は某俳優のことに移り(実際のところはどちらも彼の話なので彼女には非道く不思議だった)、ぶつりと途切れた。その間に彼は机の間をすり抜けて、教師に言われた席に向かっていた。彼女はごめん、と言って立ち上がると、其処へ向かった。
「もう、いいの?」
既に待つしかない状態だったため何をするでもなくすとんと席に座り、眼前に置かれたエプロンを掴んで顔をしかめている彼に、一応用意しといてあげた、と前置きしてから、何がいいのかとは言わずに彼女はそう問うた。
「……ああまあ一応」
五限開始には間に合う筈だったんだけど無駄足かよ、と小さく小さく呟き、彼が目を伏せる。眼鏡越しに見てもびっくりするくらい長い睫毛だ。だが目元が微かに黒ずんでいるのはそれが落とす影の所為だけではない。
「あのさ……」
彼女が口を開きかけたところで、
「おおい、焼きあがったよ!」
と背中から声がかかった。慌てて振り返ると、ひらひらと手招きされている。これ以上ここに留まるのも不自然かと思い、彼女は彼に話は後で、とだけ告げてから、そのままそちらへ向かった。視界の端に、辺りに吸い込まれてゆくように彼が表情をゆっくりと消すのを僅かに引っ掛けながら。
クッキーは自画自賛に値する非常に良い出来だった。
「ちょっと、これすっごい美味しいんだけど!」
ひとつ口にした友人がそう声を上げ、彼女の班のそれは瞬く間に無数の手に摘まみあげられた。
「お前うるさいだけじゃないんだな……」
友人に続いて、そう感嘆の(?)呟きを漏らしたクラスメイトに軽く肘鉄を喰らわせ残りのクッキーを守りつつ、あたしを何だと思ってるのよ、と彼女は反駁した。
「意外すぎ」
「あんたは失礼すぎ」
彼女がきっと睨みつけたところで、教師がぱん、と手を叩いた。
「はい、提出した分の残りは好きなひとにあげるなりお世話になったひとにあげるなりもうどうしても先生構わないから、出来た分は早く提出しなさい! 提出した人から教室に帰って良し!」
はあい、と口々に生徒が答え、自分の作品を皿に盛り付けていく。彼女もそれに倣い、クッキーの選り分けを始めた。形の綺麗なハートのクッキーを一か所に集め、少し考えてから、それをまとめてラッピングを施す。
「ね、それ誰にあげるか決めたの?」
後ろからひょい、と覗きこんできた友人がそう聞いてきた。問うた本人は言わずもがな、「彼」にあげるのだ。
――好きな人にあげるなり、お世話になったひとにあげるなり。
先刻の言葉が耳の中で反響する。
ふと気付いたら彼は知らない間に居なくなっていた。エプロンひとつ残さずに。
(この「気になる」、って何なんだろ)
誰の気持ちよりもまず自分のそれが。分からない。
「……うーんと、お世話してるひと、に?」
だから彼女は曖昧にそう答えた。彼のあの口ぶりからすると朝食を食べはぐれている事は確実だ。何者として、かは、知らない。唯心配だから。今分かるのはそれだけ。
「ふうん?」
彼女と同じように語尾を上げて親友が言う。其処でちょうどラッピングが終わった。あたし、ちょっと用があるから先に行くね、と告げて、彼女は名札を貼った皿とクッキーの入った袋を持って立ち上がった。
「先生、出来ましたー」
かたん、と皿を教師の前に置き、そのまま身体を翻して調理室を後にする。残された友人が、
「これはもしかするともしかするわね……」
と呟いたのも聞かないままに。

「……居た!」
廊下を猛ダッシュで駆け抜けて、息を弾ませたまま勢い良く保健室の扉を開くや否や見覚えのある髪の毛の端を見つけて彼女はそう叫んだ。もぞりと布団が動いて、お前の所為で起きた、と不機嫌そうな声が返ってくる。慌てて掛けたのか、少し眼鏡がずれている。
「あたし先生を追い抜いて来たんだから、感謝しても良いんじゃないの?」
存在しない眼鏡の縁を触る仕草でその乱れを指摘しつつ彼女が言う。それを見遣ってから、やや緩慢な動作で彼はだが存外素直に同じ動きをして眼鏡の位置を直した。終わるのを見届けて、彼女はやおら袋を投げつけた。
「何だよ」
抜群の運動神経は、寝起きだとか寝転がっているだとか言ったハンディをものともせずに素早く腕を伸ばさせ、その袋をきっちりと掴ませた。
「――お昼ごはん」
「は?」
「食べてないでしょ。あたし自分で言うけど料理は得意なの」
――普通の女子高生にだって出来る事くらいあるんだから。
そう言われて彼が身を起こし、手の中のものをまじまじと見つめる。やがて、それが先刻の調理実習で作られた食べ物、即ちクッキーだと言う事に気付いたのか、何度か瞬きをしてから彼女へと真っ直ぐに視線を向けた。
そして。
「……ありがと」
ふわりと。花が開くように柔らかく微笑む。薄い硝子二枚だけでは決して遮れない、ものが、溢れ出て広がった。
「……」
彼女は思わずそれに見惚れた。ごめん、留守にしてて、と言いながら保健医が入ってくるその瞬間まで。
「顔!」
「え?」
咄嗟に布団を引っぺがして頭からかぶせ、その場に押し倒すようにして寝かす。
「何するんだよ!」
抗議の台詞にかぶせるように、大丈夫、具合、と大声で彼女は叫んだ。そして身体を寄せて、小さく囁く。
「――そんなこの前のLanLanの表紙みたいな顔したら幾ら眼鏡かけててもばれちゃうでしょ、早く戻しなさいってば」
「……!」
「ちょっと、何やってるの貴方?」
怪訝そうに教師が呟く。ええと、あの、寒いって言うから、としどろもどろの言い訳をしてから、彼女は時間を稼いだ。その間に彼は態勢を立て直したらしく、もう大丈夫、帰れそうです、と言いながらその顔を覗かせた。いつも通りの表情で。
「そう? なら良いけど……」
「じゃ、あたし鞄取ってくるから一緒に帰ろ。待ってて」
そう言い残して、彼女は踵を返して保健室を出る。
(びびびびっくりした……!)
その直後、彼女は、扉を背に、その場にずるずると座り込んだ。
(何なのあの芸能人スマイル……!)
寝ぼけていてついファンに対するようにやってしまったのだろうか。にしても、生で見た破壊力ったらない。写真の中やテレビの向こうで幾ら微笑まれても、綺麗だなあと思うだけど、正直特に心を動かされる事なんて無かったと言うのに。――反則だ、反則。
其処まで考えて、やっぱり彼の孤独を切なく思った。今うっかりときめいた「偶像」が全て偽物だとは言わないけれど、身を潜めるようにして暮らしているこの高校生活だって、やっぱり本物じゃない。でもそれならば? 何処に本物はあるというのだろうか。

(嘘、だろ……?)
混乱した頭のまま彼はそっと口元を覆った。
――指摘されるまで気付かなかった、なんて。
オレは誰だ、と自問する。若手有望株の俳優、の筈だ。演技派に分類される筈だ。
今までこんな事は一度も無かった。学校できちんと演じる事が出来なくなるなんて。(全部が演技の土壌だから)成績は割合良くて、(やっぱり必要だから)運動神経も良くて、でも何だか病弱で、あまり学校に来ない、性格にはこれと言って記憶すべき特徴のないいち男子生徒。そう入学式の日に決めた役柄は、確かに一分の隙もなく完璧だった、筈だった。
緩めてあったネクタイを直しながら、傍らに置かれたさっきのクッキーを眺めて、溜め息を落とす。
「本当に大丈夫?」
それを聞き咎めて保健医がそう尋ねてきた。
あ、はい、と簡単に答えてから袋をブレザーのポケットに無理に押し込む。それから、教師が書類に目を落としたのを確認してから、少し躊躇ってそっと一枚を取り出し口にしてみた。本人の言う通り、見た目も味も、本人の印象からやや想像がつかないような極上品だった。
そして、彼女の言う通りであることがもう一つ。
移動中に食べろと渡された弁当は、胃が痛くて、そのままゴミ箱に放り込んだのだった。今日は食事はもう無理かと思っていたのに。
おかしな事が多すぎる。