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止めろなんて言えないんだから_逆視点

 誰か別の人間を演じるときは、感情全てがその誰かにシンクロする。自分の内側に自分ではない人間がいて、それが何もかもを取り仕切るみたいに。
お客さんだよ、と唯に言われて、誰の顔も浮かばなかった。中学の友人はずっと遠くに住んでいるし、高校には誰もいない。仕事の付き合いの相手で住所を知っているのは松川や事務所の社長など、『お客さん』とは言われない類の人物ばかりだ。誰だろう、と考えていたら、扉をノックする軽い音が響いた。散らばっていた台本をとりあえず閉じて重ねて脇に置く。そのまま立ち上がってドアを開くと、トレイで両手の塞がった唯がいて、それを受け取って唯に背を向けたところで、お客さんでーす、と唯が誰かに声をかけた。
振り返ると、唯の背後から、誰かがおずおずと顔を出した。
「……ええと、こんばんは」
「……」
驚きのあまり何も言えずに裕真は黙り込んだ。やや遠慮がちに姿を見せたのは、彼の思いもよらない人物だった。
「――北、原」
嘘じゃないだろうか。本当に彼女は此処にいるのだろうか。
確かめるように名前を呼んでみれば、まつりは、平気、と尻上がりに尋ねてきた。本物だった。湧き上がるこの感情に何という名をつけて呼べば良いのか分からなかった。優しくて、柔らかく灯るこのひかりを。

 そして、ごめんと謝るまつりを見ていたら、今度は疑問ばかり溢れてきた。なぜ彼女は謝罪するのだろう。自分が倒れたことは報道されていたと先刻母が言っていたから何も言わなくても彼女がこの事態を知り得ることは不思議ではない。不思議なのは、わざわざ此処まで来たことの方だ。それから謝ることの方。何故だろう。こんなに。――こんなに。
不意に松川の言葉が思い出された。まつりに服を押し付けた時のことだ。やっぱり同じように自分は要らないと言い、それでは駄目だとやんわりと窘められた。
内側に生まれる自分以外の誰かと向き合うのは容易いことなのに、どうして自分の核と向き合うのはこんなに難しいのだろう。結局言いたい言葉は途中で躊躇ってしまい霧散した。
(――ああ)
これじゃ、駄目なんだ。
そこで思いついたのが演技をするように内側に自分自身を構築することだった。深呼吸をして、呼び起こしてみれば。
心配そうな頬の傍らには、幸福の青い鳥。いつも天を仰いでいるそれは今の彼女の気持ちを反映してか、俯き加減に地を見ている。
触れて、上を向かせたら、彼女もまた同じようにこちらを見てくれるだろうか。何一つ悪くない、悪いのは共犯になることを強いてその癖失敗して多くの人に迷惑をかけ、彼女には心配をさせた自分の方で、彼女は寧ろ齎してくれたものの大きさを誇るべきだと。伝わるだろうか。
その思いのまま指先を、顔を、彼女に近づける。まつりが微かに身を固くしたのが分かって、微かな呼吸が聞こえる気がした。いつものように、鳥が天を仰ぐように。そっとピンを直す。
「な、な、な、何……?!」
そう問われて、
「……曲がってた。鳥が」
と答えてから、不意に我に返った。もう指は戻っていて、顔も離れていたけれど、間近に見た彼女の顔は怖いくらいに心を乱した。同じ距離で彼女が自分を見たのかと思うだけで脈が速くなって、何故あんなことをしたのかと、先刻の自分を頭から否定したくなった。分からないことだらけだった。早く芝居をしたいと思った。分かる世界に帰りたい。
だがそんな拠り所の演技でさえ、上手く出来なくてこうなったのだ。最早何処にも逃げる場所はない。――どうしたら。
(……それなら)
理解するしか、ない。何処にもゆけはしないのならば。分かろうとするしかないのだ。彼女が引き寄せる世界を。今までとどう違うのかを。心臓の痛い意味を。
混沌とした感情の中で、ひとつだけ分かったことがある。
――目が、離せないんだ。